「こんなに不幸なのに人のために何かをしてあげるなんてできるわけがない。やってもらって当たり前。」
自分が苦しい時、辛い時にこういう気持ちになるのは当然だと思います。
しかし、特別扱いされて当たり前だという感覚は自覚できない傲慢さを生み出してしまうので他人に嫌な思いをさせます。
自分のことを話さない。意見を出さない。挨拶やお礼を言わない。
本人からすればできないから仕方ないという感覚ですが、周りはそうは受け取ってくれません。
「感じの悪いやつだな」「ムカつくな」と思われることも出てくるわけです。
家族は自分のことを気遣ってくれるのに職場の人たちは気遣いが足りないと思ってイライラしやすかったり。
自分の苦しさ辛さをわかって欲しい。わかってくれないとイライラする。
自分より不幸な人なんていくらでもいるって頭ではわかっているのに、あたかも自分がこの世で一番不幸な存在であるかのように振舞ってしまうのです。
なぜ自分がこの世で一番不幸だと思ってしまうのか?
一番不幸であることに存在意義を見出している
自分が一番不幸というのは特別です。なにせ「一番」ですから。
一番不幸である自分は特別である。
特別な自分には価値があると思えるから、自分が一番不幸だと思いたいんですよね。
逆に言えば、一番不幸でない自分に価値を感じられないということ。
自分自身に価値を感じられない無価値感を抱えているのです。
一番不幸だと思ってしまう状態から抜け出したいなら、自分に価値を感じられるようになることが必要。
自分に価値を感じられる状態、存在意義を見いだせれば「自分が一番不幸」は手放すことができます。
不幸のアピールは間接的な攻撃
「自分はこんなに不幸なんだ」というアピールは、自分の中にある怒りや憎しみを間接的に表現していると言われます。
自分は惨めだ、不幸だとアピールすれば、普段抑圧されている攻撃性が出てスッキリする。
不幸は嫌なはずなのにどこかしら快感を感じているところがあるわけです。
泣きながらでも饒舌に、自慢しているかのように不幸話をする人っていますよね。
本来なら怒りや憎しみを言葉にするはずが、人を責めることができないから不幸話で発散するしかないのです。
不幸だとアピールしたときに自分がどういう気持ちになるのか?
一度意識を向けてみてください。
そして、間接的に出さざるを得ない攻撃性はどこから来ているのかを考えてみましょう。
自分が我慢して丸く収まるならいいと思っていませんか?感情の抑圧は自覚がないまま大きな問題を引き起こしています。
欠けたところに焦点を当て続けて不幸のスパイラルに
人は欠けたところを気にする性質を持っています。
綺麗な円と少しだけ欠けた円の絵を見せられてどちらが気になるかを問われたら欠けた円の方を指すわけです。
自分は人と普通に話せない、どうしても緊張して頭が真っ白になる、視線が気になって会話を楽しめない…
欠けた部分を見ているとどんどん欠けた部分が気になって、本当は欠けていない部分もあるはずなのに見えなくなる。
見えないから欠けている部分しかないと思い込む。
自分はダメな人間だ、性格が悪い、不幸だと感じるようになっていくわけです。
長所がないと思ってしまう人もいれば、長所はあるけど短所が多すぎてダメだと思う人もいますが、どちらにしても欠けたところばかり見ていることに変わりありません。
自分が一番不幸だと思ってしまう悲劇のヒロインをやめるために
欠けていないところに潜む幸せを探して
Mr.Childrenの名もなき詩に「愛、自由、希望、夢、足元をごらんよきっと転がってるさ」というフレーズがあります。
自分が立っているところ、つまり、自分が存在している場所には何かしらの幸せが転がっているということ。
細かいところで言えば、ご飯を食べることができているのも幸せであり、もっと言えば普通に目が見えて声が出せて歩ける五体満足だけでも幸せなはずです。
「自分は何が満たされているのか?」
「自分は何ができているのか?」
「自分の良いところ、長所は何なのか?」
普段から考えていないところなのでなかなか難しいと思いますが探してみてください。
「満たされているところがあるからどうなんだ、欠けているところがあるからそんなもの意味ないじゃないか」と思われるかもしれませんが、欠けているところばかり見続けるよりは確実にいいと言えます。
有り難いことに気付く習慣を作る
先日コンビニでホットドッグを買ったときのことです。
「温めてください」と言えばたいてい「切り目を入れても大丈夫ですか?」と聞かれていたのですが今回はとくに聞かれず。
無言のままハサミで切って温めてくださいました。
歩いているとすごくホットドッグのにおいがしてくるので、不思議に思ってみてみると袋の端が完全に切り取られていたのです。
どのコンビニでも確認をしてくれた上で少し切り目を入れ、温め終わったらテープでふさいでくれるのが当たり前。
だから、確認はなくても切り目は少しだけでテープが貼ってあるものと勝手に思い込んでいたのです。
私の場合は驚いただけ、というか、家族に話せるネタができたと嬉しく思ったくらいですが、人によっては怒りが湧くこともあるでしょう。
「当たり前」という感覚が強い人ほど不満を抱えやすくイライラしがちです。
- コンビニで商品を袋詰めしてもらうのは当たり前
- タクシーの運転手が目的地まで乗せて行ってくれて当たり前
- 自分が稼いで飯を食わせてやってるんだから妻が家事をするのは当たり前
- 親が自分の面倒を見てくれて当たり前
- 友達が自分の話を聞いてくれて当たり前
- 居酒屋のアルバイトが丁寧な接客をしてくれて当たり前
- 宅配便のドライバーさんが荷物を届けてくれて当たり前
当たり前じゃありません。
「無人島にいたとすればお金を払おうが威張ろうが何もしてはもらえない」
心理学の勉強をしていたときに先生が言っていたのを思い出しました。
「当たり前」の反対語は「ありがとう」。
ありがとうは漢字で書くと「有り難う」。
日常生活の中で当たり前と思っていることが実は「有り難い」ことなのです。
どんどん便利になっていく世の中で当たり前が蔓延しています。
不満を抱えてイライラする人も増えています。
便利になりすぎて我慢することが減ったからかもしれません。
明日のご飯を心配することがなくなったからかもしれません。
豊かになって「当たり前」と思うことが増えれば増えるほど心が貧しくなっていくような気がします。
自分が「当たり前」と思っていることが実は「有り難い」ことなのではないか?
すべてのことに対して「有り難い」と思うのは難しいですが、少しでも「有り難い」を増やせると心が豊かになるのかなと思います。